静玉屋三代目の田畑喜弘さん。

花火大会の立役者

今年65回目となる安倍川花火大会。実は戦没者の慰霊と鎮魂、復興への祈りが込められている。昭和28年の第一回から花火を製造しているのが静玉屋だ。大正初期に田畑煙火店の名で田町3丁目に工場を構え、現在は静玉屋という名で二代目の田畑喜一郎さん、三代目の喜弘さん親子が引き継いでいる。花火工場は住宅が増えた田町から20年ほど前に新間へと移転したが、田畑さん家族は変わらず田町に居を構え、毎日工場へ通っている。喜一郎さんは、土浦全国花火競技会で優勝経験がある腕前。「見てくれている人をがっかりさせないよう工夫しています」と、喜一郎さんから花火作りを学んだ喜弘さんは、伝統的な手法を大事にしつつ、新しい技術も積極的に取り入れている。例えば、製造する業者が少ないといわれる3Dの型物。イチゴやカブなどが立体的に打ち上げられる様子は、なんとも不思議。4社の競演となる安倍川花火大会は、今年も7月最終土曜に開催予定。地元の花火職人が作ったもの、と知って見上げるとより親しみが増しそうだ。

左から山田朋子さんと石上博子さん。

おばあちゃんに聞いた
さつま通り界隈昔話

さつま通り周辺の歴史をひも解いていくと、現在、西部生涯学習センターが建つ場所には伝染病専門病院の静岡西病院が、江戸時代にさかのぼると、田町南公園には囚人墓地が、さつま通り(さつま土手)付近には火葬場があった。さつま土手の一部は『火屋(ひや)』=『火葬場』の意味から『ひやんどて』と呼ばれたことも。「田町南公園には桔梗地蔵を祀り、毎年多数の僧侶を招いて5丁目町内会を中心に供養祭を盛大に行っているんですよ」。そう教えてくれたのは、田町在住歴80年の石上博子さんと、70年の山田朋子さん。「私が子供の頃は住人が少なかったんですが、戦後、新天地を求めて木工や下駄作りなどたくさんの職人さんが移り住んできました。この辺りの人は皆、人情味があって朗らかですよ」と石上さん。石上さんは元小学校の音楽教師。最近は紙芝居を作り、教会で子供に向けて読んでいるそう。山田さんは歌作りと踊りの達人で、地域の交通事故ゼロを願い、約20年前に『交通安全音頭』を振り付きで作詞作曲。交通安全ボランティアを起ち上げ、仲間と共に地域の病院や老人ホーム、イベントで交通安全活動を行っている。個性的なおばあちゃんが暮らすさつま通り周辺は、一歩踏み込んでみると下町情緒と優しさにあふれた町だった。

『さつま土手』って?

徳川家康が将軍職を退き、駿府城に隠居することになった慶長11年(1606)。家康が城の改築とともに命じたのが、当時幾筋にも分かれて市街地にまで流れていた安倍川の洪水対策だった。台風を迎えるたび悩まされた流れをせき止めるため、計画されたのが土手造り。その工事を請け負ったのが、財政豊かだった薩摩藩だ。井宮で「妙見さん」の名で親しまれている井宮神社から緑が丘までの約4㎞に高さ5mほどの堤防が築かれ、尽力した薩摩藩にちなんで『さつま土手』と名付けられた。そのうち土手の外側(安倍川側)にも人々が暮らしはじめると、生活する上で土手の存在が邪魔になったため土手を削って主要道路に造り変えられた。そして昭和39年、三番町小学校5・6年生による「町内歴史研究」グループによって『さつま通り』と命名され今に至る。